HONDA F1復帰への考察 - その1


ー はじめのいっぽ

今回のホンダのF1カムバックについて「不可解」と言うキーワードが散見されるが、それは的を得ていない。
むしろやっと正常に戻った、或いは本来の姿になったと言って然るべきではないか?と思う。 

この部分の理解を得るには、まず昨今廃止された青山本社にあったモータースポーツ部が出来た経緯を知る必要がある。 

しかしそのモータースポーツ部、通称 「アオヤマ」 を知るには、さらにその前の部分へ遡り、第二期F1、すなわちセナ・プロが席巻したあの時代のルーツを知らなければ理解ができない。 

だがそれを論じる前に、そもそもホンダのF1とはどこがやっていたのか?と言う観点をまず確認しなければならない。 

第二期F1のルーツはどこにあるのか? 

1978年に開発に着手し1980年に登場したホンダF2に、第二期F1に繋がるその活動のルーツを見る事ができる。 当時研究所の役員だった川本氏と旧知の仲だったラルト・カーズの代表 ロン・トーラナックとの関係からラルト・ホンダが誕生し、のちに当時の欧州F2を席巻したのは有名な話し。

そこから更に勢力を拡大し、マーチ・エンジニアリングにいたジョン・ウィッカムらをヘッドハンティングしスピリット・レーシングを設立。 その後、スピリットをF1へとコンバートしF1参戦への道筋を立てた。 


因みにホンダF1のカムバックドライバーとなったステファン・ヨハンソンに、このスピリットF1について 聞いた事があるが 
「オーバーとアンダーを繰り返し、乗れたもんじゃなかった」
 とのこと。
 そしてホンダはウィリアムズへのエンジン供給へと流れて行く。

 この流れで分かるのはあくまでも 「研究所マター」 でやっていた、ということ。 研究所の活動に対し、本社が予算を支援する、と言うカタチが取られていた。

 ところがこの流れがやや過剰に膨らみ始めたのがまさにセナ・プロ時代だった。
 パワーユニットの供給という、本来のホンダのF1の取り組みの一丁目一番地の枠を最初に外してしまったのが、マクラーレン・ホンダ時代だった。

エントリー名を見たら分かるが、この当時は 
「ホンダ・マールボロ・マクラーレン」 
言うなれば 「タイトルスポンサーの位置」


しかしもちろん、その時代背景を無視してはならない。

当時の日本はバブル景気真っ只中。
「企業として突進しないと何もやっていないように思われる」 と言う時代である。

我々は当時、パナソニックF3事務局をやっていた。
今だからこそ言うが全日本F3の冠スポンサーで年間7億円。
1988年から1992年の五年間で実に30億円を超える巨費を投じていた。

当時まだ松下電器だったが、それまでの同社の一番太い宣伝は水戸黄門の番組スポンサー。
「なぜ松下はF3のスポンサーをやるのか?」
の問いに
「いつまでも水戸黄門じゃないでしょう」
と我々は真顔で答えていた。

またおかしな企画にのってしまい、小説も書いた事の無いナゾの作家が登場。
「女子大生作家◯◯。ただいま処女作執筆中」
と当時松下が力を入れていたワープロ〝すらら〟のCMに起用。
鈴鹿にレースを観に来るとの事で、あの大電通が総出で迎えるなど、嘘もマコトもごちゃ混ぜの時代だった。

その謎の女子大生作家。
マネジメント会社を調べると、のちにあの叶姉妹を生み出す事務所だったりして、現場としても「なんだかなぁ…」 の時代でもあった。

因みに当時松下電器は社名が松下電器。米国向けのブランドがPanasonicにオーディオ関係はテクニクスと、ブランドネームがバラバラだった。そこで米国への輸出に力を入れていた関係でPanasonicを優先していたと言う事情がある。

人気漫画「課長 島耕作」で松下電器と思われる「初芝電産」。
ブロードウェイの一等地に「HATSUSHIBA」の看板を出すくだりがあるが、あれは実際にあの描写の通りである。
電報堂と言う名前で出てくる会社はどう考えても電通であり、木曜日に会社に行くと、皆一斉に机に座ってモーニングを読むと言う光景が本当にあった。普段、みんな会社に居ないくせに…

1988年。 日本グランプリのサポートレースでF3の開催が決まり、
「Panasonic F3 Super Cup」
と銘打たれ開催された。

のちにインディカードライバーとなるヒロ松下選手が、そのレースに参加を希望。しかし松下電器の内部には明確に、モータースポーツへの支援に対し良い顔をしない役員もおり、まして
「創業者の孫を走らせるのに会社のカネを使うのか!」
とあからさまに不快感をあらわす役員もおり、その対策に苦慮した。

そこで考えたのが当時Panasonic F3がタイアップしていた集英社の週刊プレイボーイにお願いし、記事にしてもらう事でそのタイアップ料としてF3を走る予算をタイアップ料に上乗せして集英社に払い、そこから実際にクルマを走らせる無限に払ってもらうと言う荒技をやった。

話しは逸れたがたかがF3をとってみても、松下電器・集英社・電通と大手企業が動く。 そんな時代背景だった事を理解してほしい。 
そのくらい〝目に見える〟企業の活発な動きが求められた時代でもあった事は事実だった。


ー 第二期を終え




「カネが無かったんだよ。」
「あそこで引かないと、どうにもならなかった。」

自らが畑で育てた材料で作ったツマミを口の中に放り込み、誰が持ち寄った酒なのか、既に記憶を無くしたくらいに深い酒を呑みながらA氏は呟いた。 

時はミレニアムを迎え、二十一世紀に入った。 引退したHRCの元重役だったA氏は、第二期の撤退理由をその一言でまとめた。
彼は研究所からHRCの重役となった。
いまでは余生をゆっくりと過ごしている。

ホンダの利益のキーポイントは言わずもがな米国である。

F1にカムバックしたその時期の1983年から1984年にかけての円/米ドルの為替レートは、1米ドル/237円と言う超円安の時代だった。

つまり米国のホンダ、通称「アメホン」が1ドルの利益を産むと、日本の本社では実に237円を計上できていた。
まさにアメリカ様様の時代だった。

ところが撤退の噂が吹き荒む頃になると、1米ドルは1991年/134円、1992年には126円にしかならなくなっていた。

つまり
「頼みの綱の米国からの利益」は「10年前と同じ量を売っても利益はほぼ半分」になっていた。

それに加えて1991年は日本経済のバブル崩壊の足音は、既にズシン!と地鳴りを上げて聞こえて来るレベルにまでなっていた。

大手銀行はそれまで散々使ってきたいわゆる自分達の子分、すなわち「地上げ屋」を容赦無く切り捨て、自分達が仕掛けたクセに、急に被害者ズラをして逃げ回った。

バブル時代、一世を風靡したレイトンハウスの代表だった赤城さんの事務所を訪ねた事がある。新橋の不動産開発会社の事務所だった。もちろん赤城さんの出所後の話しである

立派な事務所だったが人はいない。
赤城さんは事務所のソファで寝ていた。平日の真っ昼間であるにもかかわらず、だ。

それを見てそれまでの全てを理解した。
彼は大企業と言う名の信用と言う鎧で着飾ったペテン師達の起こした全ての罪を一身に受け、その身代わりとなって獄に落ちた。
事務所に貼られている、その時点で与している大手不動産会社のあるプロジェクトのポスターを見てそれはスグに分かった。
そう言う意味からして赤城さんは「漢」であった。
不正事件を首謀したかの様に言われ、死後もなおその様に理解されているが、本当に責められるべき人物たちは、この十年ほどの間に手厚い退職金を受け取り、いまも年金でのうのうと暮らしているあの会社の連中である、と断言する。
彼の名誉の為に。

新百合ヶ丘に行く機会があったら、津久井街道沿いに立って、北側に開けた振興住宅街に向かい、お線香の一本もあげたくなる。
そんな義憤に駆られる。

80年代後半、日本企業でグローバルマーケットに進出していた会社は皆
「同じコストで倍の利益が出る米国」
でこの世の春を謳歌した。

一方で安くて良質な製品を次々に輸出している日本に対し、米国内では自国の産業が次々に喰い荒らされていく。その怒りの矛先は日本製品に対して向かい、非売運動、いわゆる「ジャパンバッシング」が吹き荒れた。

これはいまの世に続く国際的な軋轢の芽生えの時期であった。

因みに米国経済がどのくらい頑丈だったか?と言うと、あの忌まわしい9.11が起こった事でようやく日本のモータースポーツへのスポンサーを辞めた企業が出ると言うくらい、その地点までは堅調だった。
それほどまでに米国経済は底が固かった。

米国の銀行に預金しておけば利息が年7%もついた。

こう言う企業の余剰金は、年度予算で通りづらい案件、例えばモータースポーツへのスポンサーに使われる事が多かった。
そして9.11でその全てが萎んでしまった。

米国企業の話しでは無い。
日本の企業がその様に米国の金融を使いまくっていた時代だったのだ。
なんの事は無い。
コロナ直前の中国企業と大して変わらない事を、日本企業も米国でやっていたのだ。

冒頭のA氏の言葉は、それら全ての出来事を包括して出た、本音のため息の言葉だった。

彼は川本氏ばかりか、創業者である本田宗一郎氏に直接の薫陶を受けている。それ故にその一言は、大企業の体裁を全て取り除いた、真実の赤裸々な言葉として胸に響いた。

この第二期に問題になったのは高額なドライバーのギャラだったと言う。 ピケしかり、セナしかりである。

しかし彼らをTV CMで使う。
お昼の人気番組「笑っていいとも」にまでF1ドライバーが出る時代である。

「いくらなんでもカネを使いすぎだろ!」と口うるさく言う役員がいても「それで売れているんですから!」と言う営業担当の一言で押し返されてしまう。

セナ・プロ(のちにベルガーに変わったが)の時代はそんな時代背景でもあった。

それ故に研究所がエンジン供給のオプション的に、チームのスポンサーになる事も、ドライバーの高額なギャラを負担する事も厭わなくなっていた事は事実である。
ドライバーのレーシングスーツの横いっぱいにHONDAのロゴが入っていたのもうなづける。
本来ドライバーのギャラはチーム側の資金で支払われるものだ。

いつだったか桜井さんにその辺りを聞いてみたのだが、真っ昼間から出来上がっており
「良いから呑め」
で終わってしまった事がある。
しかしプロストの話しになると態度が一変し、口撃を始めた。

「経済」と言う風は吹く方向が少しでも変わると、世の中の景色が全てが一変する。
それまでの「イケイケドンドン」の企業風土は悪とされ「何もしないで節約する」風潮が善とされた。
それがいまでも語られる日本経済の「失われた三十年」の根幹的な要因だと思っている。
長い歴史で言えば、その変化はまるで一夜にして変わったくらいの勢いだった。

さらにクルマに対する市場のニーズが、急速に変化してきた事もある。
80年代から90年初頭にかけて、いわゆるスペシャリティーカーと言うジャンルが立ち上がり、2ドアクーペ/2+2の贅沢な仕様が好まれた。

いまの日本の主流であるワンボックスはハイエースやキャラバン等の、いわゆる商用車ベースがほとんどだった。
しかし変化は確実に始まっていた。

映画や歌の影響からスキーが大ブームになり、そこに引っ張られるようにRV系と言われるタイプのクルマが飛ぶように売れた。


「天才たまご」のキャッチフレーズで登場した、セダン並みの高級な仕様を備えたワンボックスカーのトヨタ エスティマが登場し、これからの自動車の方向性を確実に照らし始めていた。



この状況に肝を冷やしていたのがまたもやホンダだった。
ホンダは大きいクルマを生産するラインがなく、その当時のラインを使い、目一杯のサイズで製造したのが初代ステップワゴンだと言われている。

それは即ち、これから大きな設備投資を要する事を示唆していた。

折りしも自動車業界全体が大きな曲がり角に来ていたとも言える時期でもあり、米国ではいち早くリストラが行われ整理統廃合され、新しい自動車関連メーカーが次々に誕生した時期と重なった。

ホンダやトヨタにその多くの市場を奪われた米国のビッグスリーは、日本に対してもなりふり構わぬ攻勢を仕掛けてきた。

ちょうどその頃、フォードから独立した部品メーカーのプロモーションを担当した。 昨日今日、出来たばかりの会社が経済誌Forbesで「優良企業」として掲載されていたのには吐き気すら覚えた。



この様な状況の中で単純に技術の為、人気の為にF1を継続するのは、経済的理由を差し引いてもなお無理だと言う事は、誰の目にも明らかだった。 

1992年でその活動を休止したホンダ。

その後、社内でF1の事を口にするのを憚られる様になった背景には、こう言う世情の変化もあったのだろう、と同時に「社会や会社の方針にそぐわない事をした」と言う風潮に晒された結果ではないか?と思える空気感に支配された。

しかしその中でもホンダのF1への火種は消えた訳では無かった。

「いまは時が違う。しかしその時が来たら必ず戻る。」

そう腹に決めてる人がいた。

しかしこれまでのF1にまつわる動きを「研究所の暴走」とされたらたまったモノではない。
予算管理をしっかりとして研究所は技術を。
本社の専門部署では予算管理とマーケティングを。

自らの年齢を逆算して、社長引退のそのタイミングを狙ってもう一度、F1へ戻る。

川本氏は静かにその時を待っていた。

自分はその日、来るべきWGPの準備のロケハンでもてぎにいた。

プラットフォームに立っていると川本氏が「よ!」っと言って近づいてきた。
A氏を囲んで面識はあったので顔を覚えていたのだろう。

「ついに第三期、スタートしますね!」
と声をかけたが
「なーに、やるたってさ、挙手をお願いします!って言ったら手を挙げたの俺だけよ。あとは渋々、社長が挙げたから仕方なく後から挙げたって、こんな感じだよ。こんなんじゃあ勝てねーよ、F1なんてさ!」

呆れているのか、親として敢えて突き放しているのか。 第三期への決定の様子を川本氏はそう語った。