どこのタイミングで聞こうかと、北京での滞在期間中ずっと様子を伺っていたが、飛行機の座席で隣になった事から思い切って聞いてみた。
「なぜ(第三期の)活動を辞めたんですか?」
彼は間髪を入れずに答えた。
「あのタイミングで辞めないと、株主総会を乗り越えられなかったんですよ。」
彼は第三期の中で重責にあった人物で、今回は後々の第四期、つまり第二期マクラーレン・ホンダが発足する前の段階の作業をしていた。
そして光栄な事にそれをお手伝いさせて頂けるチャンスを頂けた。
話しは一旦、一番最初に戻る。
この一連の流れを書こうと思ったのには理由がある。
一つはTwitterの長文のシステムを試してみたかったと言う事。
実はこの文章は以前に書いて貯めていたものだった。しかし特に出す場もないし、それを作ろうとも思っていなかった。しかしどこかで出さないとならないかな?とは思っていた。
もう一つの理由として、産業としての自動車メーカーの立ち位置と、スポーツチームとしての活動をキチンと連動して伝えるメディアが無い事。それを問題提起する事で、昨今のモータースポーツの関係者やファンが叫ぶ「なぜ社会的な認知が薄いのか」という問題に切り込みたかった事。
そして撮り鉄問題の様な一部の暴走したファンの問題である。ある国内レースで大きなクラッシュがあった。その事故に絡む選手の名を挙げて「もう一人の選手を殺そうと考えて行動した」と言うDMが来た時には気分が悪くなった。
あとひとつ伝えたかったのは、自身の経験である。ある時・ある瞬間・ある人の涙を見て自身の中に眠っていた愛国の気持ちが一気に開花した。
それらを総合して書こうと思い、ずっとメモとして貯めていた。
本来であれば、こう言う長文は 「起・承・転・結」 の四章に分けられる。 既に 「起・承」 の部分は終わり、ここから 「転」 を書かなければならないが、ここだけは 「転」 が二つに別れる。 全体に起こった事(前半)と、それとは別に自分自身に関わる部分の事(後半)だ。 ここではまず「転」の前半を書く。
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上海の空港に降り立った一行は予約をしているホテルに向かった。 勝手知ったる上海の街。ホテルも自分の会社と契約しているホテルで、かつて借りていたアパートの真横のホテルだった。
ホテルに入り荷物を片付けて外に出るとあちこちから声を掛けられる。
「帰ってきたの?」 「久しぶり!」 「元気してた!?」
ラーメン屋からレストラン、深夜営業の果物屋に至るまで、ニコニコの笑顔で声を掛けてくれた。
今回の調査団には別の目的もあった。 各国のASN(自動車連盟)のトップに会い、いずれF1に戻る事を挨拶しておく。 いわゆる「仁義」を切りに世界中を飛び歩いていたのだ。
北京では中国汽車運動連盟のトップの他、F1中国グランプリで競技委員長を務める人物に挨拶をした。
また調査団自体のリストには載っていない人物にも会わせた。
Z氏。民間企業を装っているが、実は政府の出先機関の番人だ。
チームチャイナを名乗る事を国から許されている人物である。
彼らはその後、英国の会社に作業をやらせてはいるが、実際のフォーミュラEのオーナーとなる人物だ。
ここに仁義を切っておけば、あとは何かあってゴチャゴチャしても電話一本で解決する。
日本人の海外ビジネスは、そう言う教科書に出て来ない部分を潰しておかないから、あとで面倒な事に巻き込まれる。
従って打ち合わせ時には敢えてリストに入れていなかったが、訪問時間に余裕を持たせランチとだけ書いておいた。 そのランチをZ氏ととる様に勧めた。
北京最高と言われるレストランで無事に会食を済ませた。
食事が終わり解散してからその人物の正体を言うと驚いていたが「会わせてもらって良かった。我々だけでは辿り着かない人物だし、聞くまでわからなかった。」と言われ、感謝された。
上海の夜。
上海在住の日本人の友人にレストランの予約を頼んだ。 外灘の絶景が見えるレストランで遅い夕食をとった。 友人が中国の現状を説明しているなかで、ある人物の名前が出た。 それはホンダ自体が良く仕事を頼んでいる方らしく、友人はその方の会社の財務をみている。 思わぬ繋がりが分かり、友人がその方に電話をかけた。
相手の方も「えー!どう言う繋がり?!」と、大いに盛り上がった。
上海ではモータースポーツとは少し離れた部分の事を調査課題としてこなさなければならなかった。
それは「中国の自動車工業会の発表は本当に正しいのか?」と言うテーマである。
「中国の統計だろ?ウソに決まってるだろ!」
と言う人がいる。
しかし大切なのはどうやって「ウソ」を「ウソ」と証明するかだ。
そこで自分はあるスポットを見せに行った。
上海サーキット。
そこは毎年ある期間、立ち入り禁止の時期がある。
いまがその時期のはずだ、と勘でセッティングした。
立ち入り禁止だから入れないが、元々、サーキットの中に自分のオフィスがあった。
従ってあるキーワードを言えば中に入れる事を知っていた自分は、守衛にキーワードを伝えた。
ゲートのバーが開き中に入る。
場内の全てに工場から出てきたばかりのVWの新車が埋め尽くされていた。 「なにこれ!」
調査団は声をあげる。
「余剰在庫ですよ」と伝えた。
頭の良い彼らはこれですぐに理解した。
販売計画から生産をみて、生産計画から販売へ落とし込む。
そんな事は一切していない。
工場は作れるだけ作る。
莫大な余剰在庫が生まれる。
何らかの処理をして、それを販売台数として計上する。
「中国の統計の闇を見た思いだ」と、同行者の一人はつぶやいた。
そしてその余剰在庫の謎は次の訪問地、深圳で簡単に答え合わせが出来た。
深圳であるAudiのディーラーに客を装って訪ねた。
あの「尖閣諸島は中国の領土だ!」と看板を掲げたディーラーだ。
彼らはいまアジアGTチャレンジでAudiワークスをやっている。 私がアジアのGTを見て、素直になれない原因はこう言うところにある。 富士や鈴鹿に来た彼らにカメラを向けて「カッコイイ!」と叫んでいる日本のファン。 これ以上は何も言わん…。
その店を出る時にふと目にした看板に一同が固まった。
「あなたはA6(或いはA4)を持っていますか?買った時の領収書は保管してありますか?走行距離は20万km以下ですか?もしそれに該当していたらすぐに書類とクルマを持ってきてください。新車に取り替えます。」
これが爆売れしていると言われる中国の自動車販売事情だ。
話しが飛んだが、上海ではCTCCの主催者のトップに引き合わせた。
ここに行ってもかつての自分のチームのメカニックがいたりして、和やかに話しが進んだ。そしてそれは数年後、中国の合弁会社「東風ホンダ」のCTCC参戦へと結実する事になる。
F1に戻す。
やはり第三期は大きな課題を残して終わった。
研究所は技術に集中できた。
だからこそホンダ名義ではなかったが、ブラウンGPのあの傑作シャーシを生み出せた。エンジンもいずれ何とかなったであろう。
しかし問題はオペレートにあった、と言う。
予算管理は第二期の後に作られた青山本社内のモータースポーツ専門部署。 通称「アオヤマ」
しかしそこと、英国の現在メルセデスF1の本拠地にあったホンダF1部隊とは決してスムーズでは無かった。
第三期の主要メンバーをして何度も名前が出た人物。
「ニック・フライと言う悪党にやられた」と言う。
自分は決してこの会社の体制が間違えていたとは思わない。
メルセデスだってトト・ウルフの会社であり、そこにメルセデスがカネを出しているに過ぎない。それに比べたらホンダの方が純然たるワークスだ。
しかし本社サイドではアオヤマが、英国ではニック・フライの悪役ぶりが、結果的にこの大企業の名誉を賭けたF1参戦を、株主と言うオーナー陣達への理解を得るまでには至らなかったどころか、大いに反感を買うものになってしまった事は歴史が証明してしまった事となる。
「転」の後半はHONDA F1の話しから、かなり離れる。
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2007年。
新天地を求めて海外へ移住した。
あらかじめ準備をしておいて、翌2008年にChina Formula Openへ参加した。そしてタイトル奪取。
その前にも後にもAFR(Formula Renault Asia Series)でタイトルを獲った日本人はいるが、あれはHKAA(香港汽車連合会)のレースの為、中国本土の選手権でタイトルを獲ったのはこれが最初となった。
そして日本人にタイトルを獲られた中国汽車運動連盟は、以後、外国人を締め出した。千載一遇のチャンスをキッチリとモノにできて満足だった。
この事で08年の後半はもの凄い量の仕事が舞い込んだ。
まず上海電通から呼ばれた。 中国でYaris(Vit’z) Cupを考えている。ついてはスタッフとして加わって欲しい、ときた。同時に籍を置いていた上海のプロモーターの会社にはVW社から新シリーズの企画提案の打診が来ていた。
自分はVWにはかかわらず、TOYOTAの業務に専念した。
なぜならそこには日本の代理店時代によく知った顔がいたからだ。
「結局、場所を変えてもいつものメンツかよ!」と軽口を叩き合った。
中国全土を飛び、広州電通でプレゼンを迎えた。
これにはVWを担当している上司も加わった。
その前夜。
企画提案書の書き方の違いで自分達は大いに議論した。
VWチームはマシンの車体にロゴを貼ったらいくら、ピット周りに看板出したらいくら、と言う如何にもレースチームが書くような企画書だった。
一方のこちらはPanasonic F3時代からの慣れっこの企画である。
「サーキットの来場者が目の前を走っているクルマを見て、ディーラーに足を運びたくなる様な提案」を作った。この事が後で大きな方向転換を生むとは、この段階ではまだわかっていない。
VWチームは「こんな細かいところまで必要あるのか?」と訝っていた。
結論としてはTOYOTA案は通り、後日、VW案は落ちた。
「勝負あった!」
自分は内心ニヤけていた。
しかしこの年の9月に起きたリーマンショックの余波は時間が経てば経つほどに波が大きくなり、この年の年末、代理店から「春過ぎまで一旦保留」の言葉が告げられた。
しかし年が明けても動かなかった。
肝心要のTOYOTAが米国で大規模リコール問題の渦に巻き込まれていた。
翌09年の5月。
VWから再度、提案依頼がVW担当チームにきた。
そこには一行の条件が付けられていた。
曰く
「サーキットの来場者が目の前を走っているクルマを見て、ディーラーに足を運びたくなる様な提案をして欲しい」
TOYOTAのYaris Cup用に作られた企画書から、TOYOTAの文字を取り、Yarisの写真を外し、VWのロゴとクルマの写真を当てはめた。
そしてあっさりと企画は通った。
天下を獲った気分だった。
VW北京本社を経由してVWドイツ本国で企画を通した。
「自分の企画は世界で通用する」
そう確信した。
勝てば官軍だと思っていた。
その後、VWシリーズはスタートする訳だが、そこで根本的に考え直さなければならない出来事が起こった。
「反日デモ」
である。
TOYOTAと言うクルマだから。
HONDAと言う名前だから。
破壊のかぎりを尽くされた。
ことHONDAに至っては青島の工場が焼き討ちにあった。
加害者は中国人。
そして被害者もまた中国人。
「こんなことはやめろ!みっともない」
と声をあげた中国の青年がいた。
その中国人の青年に向かって生卵がぶつけられ、水の入ったペットボトルが容赦無くぶつけられた。青年は血まみれになっていた。
この生卵とペットボトルを手配してデモ隊に渡していたのは、公安の人間である事が香港メディアに暴かれた。
「俺は何しに来たんだろうか?」
目の前で起こる出来事を見て思考が止まった。
2010年2月。
豊田章男社長が米議会の公聴会へ出席し説明。
北京でも謝罪会見を開いた。
完全にトラップにハマっているのは火を見るより明らかだった。
中国の反日デモも、米国でのリコール問題も、問題が1mmも無かったのか?と言うと、そうとも言い切れない。
が、しかしのちに数々の偽証が暴かれている。
「TOYOTAを信じてください」
この一言を振り絞るような声で語った豊田社長の姿を見て、自分は何か根本的な事を間違えたのでは無いか?と言う思いに駆られた。
実はこの企画依頼の最初の打診は08年の初頭にあった。
その時の中国のアンケート調査の結果を見せてもらったが、当時の中国人民の乗りたいクルマのNo.1のところに記されている文字は他でも無い「豐田(トヨタの中国名)」だった。
「VWは?」
「あれは上海のクルマだろ?」
「Audiは?」
「共産党御用達のクルマだ。あれは汚職の象徴だ。」
これがアンケート結果の真実だった。
いま思えば…だが、このアンケート結果が漏れていた可能性は否定できない。
その結果のトヨタバッシングだったのではないか?
ついでにホンダはトバッチリを受けたのではないか?
これが現段階の私の抱いている疑念である。
なぜなら「日本の自動車産業」が狙われたからだ。
中国でのVWの本拠地は?
言わずもがな上海である。
動乱デモは江沢民のお家芸だ。
このデモで漁夫の利を得たのは奇しくもVWであり、叩きのめされたのは日系自動車メーカーだった。
漁夫の利?
それにしてはその後に続く流れを見ても、話しが良くできている。
米国も中国もよく似た構造の国である事に異論はあるまい。
その後長年にわたり、VWは中国市場を席巻し、日系メーカーは長く不振を味わう事になる。
この豊田社長の涙を流しながらの会見を見て、自分の考え方をもう一度顧みた。
自分はTOYOTAでも何でもない。
しかし日本人である事には変わりはない。
否、そこだけが揺るがないモノとしてある。
だとしたら自分の取った行動は正しいのか?
だとしたら自分の取った行動は正しいのか?
結果、何か日本や日本製品に対して不利に働く事になっていないか?
悶々とした日が続いた。
ホンダの人たちと中国のサーキットをまわって歩いた。
これはTOYOTAの人が黙っているんで、敢えて言う。
WEC上海でTOYOTAが表彰台に上がった。
そして日本の国旗が切られた。
なぜポディウムのところにそんな輩が入れているのだ?
なぜポディウムのところにそんな輩が入れているのだ?
それ自体がおかしいだろう?
またVIPルームの中でも差別用語を投げかけられた。
CTCCに参戦する現地法人のホンダに対して
「いまは危ないんじゃないですか?!」
と言った。
すると研究所や現法のスタッフが目に涙を浮かべながら言った。
「工場も焼かれて、いまこれ(CTCC参戦)だけが唯一の明るい話題なんです!」
「あー、自分は間違えていた。」
「自分だけが勝ち上がれば良いってもんじゃないんだ。」
「自分が自分である事と同時に、生まれ育った国を背負っているんだ。」
こんな基本的な事すら忘れていた。 これがその後の活動を支える考えの大きな礎になった。
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北京から上海に飛んでいる飛行機の中で研究所の人に言った。
「ホンダでもTOYOTAでも日産やスズキでも良い。日本の会社が勝てるのであれば、全力で協力させてください。」
そう言ってガッチリと握手した。